9月のFlyFishing
9月24日 道東のいくつかの湖でのFlyFishing・・・心の赴くままに
FishingData
気温:14度その後18度水温:16度
使用ロッド:OrvisPM10 9F5番4P
使用ライン:WF5F
リーダーティペット:4x12f+5X6f
フライ:オリジナルビーズヘッドマラブーストリーマー12番
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釣りを何かに例える事は無意味だと知ったのはいつの頃だろう。過去の自分がそうであったように、人は心の拠り所を求めるときに擬人化したり、人生に準えようとする。人生も釣りも特別なものではないと言うことを知っているのに。
釣りはいつでも、どこでも出来るものだ。川へ行かなくとも湖で立ち込まなくても、海で風に打たれなくても釣はできる。釣りに向き合う心がある限り、釣を好きである限り。想像と希望と混沌が交差するほどに焦がれている自分がいる限りは釣りはいつでも、どこでも出来る。
心の中を流れる漠然とした川や止水では、その中心で動き悩み釣りをしてるのは自分自身だ。きれいなキャストやフライに鱒が出るわけではない。鱒は自分を求める釣師に微笑み口を使ってくれるのだ。雨の日の釣師はそんな釣場の抱えきれないほどのエピソードと微笑を携えて私の元を訪ねてくる。
特別なことを書くつもりはないが、この釣場を思い描く言葉が見つからない。なだらかに頭を抜けてゆく風と、共に初秋の始まりにいつものように自分のEastRoadをユラユラと歩いてきた。
釣りと釣場にあるのは夢や希望ばかりではない。現実はいつでも私を苦しめる、良い釣場であればあるほどに。楽しめば楽しむほどに憂いは深く感情は波を打つ。普通の目線で見れば何事もない古びた現実があるだけのことなのだ。愛すべきアメマスも、愛すべきこの釣場も、現実社会の構成物質であることは否めないのだ。そう、釣師とは非現実社会に生きるもう一人の自分なのかも知れない。

心の赴くままに、たどり着きたいところへ走り、釣りたい鱒を欲望の数だけ釣る。妄想と言われても、狂喜と笑われても自分が望んでいる世界へ駆け込んでゆく。腕や体に疲労と言う現実を刻み込みながら心を埋めて行く。”今日も釣ができてよかった、心からそう思える日が明日も10日後もふた月後も、10年後も続きますようにと悪魔のように願い一心不乱に鱒を釣る。

だがその釣場には思い描いていた光り輝く鱒の姿はなく、生への証に彩られた今をしっかりと生きる鱒の姿に溢れていた。これもまた現実の釣りなのだ。少しだけ傾いた西向きの太陽は不思議な色に空を染めてゆく。

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